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香取市について

香取市の特色1

【城山公園より利根川を望む】
【城山公園より利根川を望む】

香取市は、千葉県の北東部に位置し、北部は茨城県と接しています。東京から70km圏にあり、世界への玄関口、成田空港から15km圏に位置しています。

北部には水郷の風情が漂う利根川が東西に流れ、その流域には水田地帯が広がり、南部は山林と畑を中心とした平坦地で北総台地の一角を占めています。
日本の原風景を感じさせる田園・里山や、水郷筑波国定公園に位置する利根川周辺の自然景観をはじめ、東国三社のひとつ「香取神宮」があります。

舟運で栄えた佐原のまちには日本で初めて実測日本地図を作成した、「伊能忠敬」の旧宅(国史跡)、江戸時代から昭和初期に建てられた商家や土蔵が現在もその姿を残し、関東地方で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されるなど、香取市は水と緑に囲まれ、自然・歴史・文化に彩られたまちです。

香取市の特色2

【小見川祇園祭にて】
【小見川祇園祭にて】

行事も年間を通して盛んに行われ、4月には城山公園や佐原公園を始めとする市内各所に桜が咲き誇り、6月には東洋一の規模を誇る水郷佐原水生植物園において、400品種150万本の花菖蒲が色とりどりに咲き誇ります。
夏(7月)と秋(10月)には佐原囃子の調べに乗って山車が市内を曳き廻される、勇壮絢爛な「佐原の大祭」(国指定重要無形民俗文化財)が盛大に開催される他、関東でも有数の歴史と規模を誇る「水郷おみがわ花火大会」や黒部川でのボート、カヌーなど水上スポーツが盛んです。

産業面では温暖な気候と肥沃な農地に恵まれ、首都圏の食糧生産地の役割を担っています。
古くから水郷の早場米産地として知られ「関東一の米どころ」です。

香取市の歴史 古代

【大塚山古墳入口】
【大塚山古墳入口】

香取市の北部、千葉県と茨城県にまたがる地域は、古くは大きな内海が存在していました。
その範囲は、霞ヶ浦や印旛沼、手賀沼にもおよび、「香取の海」や「香取流海」などとも表現されていました。
その後、古利根川などにより上流の泥砂を沈積していき、デルタ地域を形成しました。利根川が現在の姿に近くなるのは、江戸時代の前半になります。

このため、内海との境となる北総台地の縁辺部などに多くの遺跡が残されています。
阿玉台貝塚、良文貝塚(小見川)、下小野貝塚(佐原)、向油田貝塚(山田)などの貝塚遺跡、神道山古墳群、又見神社古墳(佐原)、城山古墳群(小見川)などの古墳遺跡など、古の先祖が生活していた痕跡を残しています。

店主が通った香取市立小見川北小学校内には敷地内に古墳があり、休み時間に簡単に土器の欠片を見つけられました。
古代の香取市域は、佐原地区付近は香取郡、小見川地区や山田地区の一部が海上郡、山田町の一部や栗源地区が匝瑳郡となっていました。また、香取神宮は、下総国の一宮として古代より鎮座していました。

香取市の歴史 中世期1

【城山古墳入口から】
【城山古墳入口から】

中世期においては、市域の多くは千葉氏一族がその勢力を誇っていました。
佐原を中心とした地域では千葉氏一族である国分氏が本矢作や大崎に城を構えていました。
また小見川付近には東氏の一族である木内氏などが支配していました。

山田の府馬城は、千葉国分氏の子孫である越前五郎時常が室町期に築城したと伝えられます。
戦国期になると小見川には粟飯原氏が勢力を有するようになります。

城山の名前のとおり平安時代から室町時代にかけて、豪族粟飯原氏の城が築かれたところで、今でも本丸跡が一部残っている他、古代の古墳群もあります。
粟飯原氏の城から見て黒部川よりも内側にしか古寺がないことを、このページを書き進める上で初めて知りました。
街の中心から城を囲むように古寺が点在しており、その中には初代松本幸四郎のお墓のある善光寺も含まれます。

香取市の歴史 中世期2 漁民集団「漁夫」

【本店裏の船着場から漁に出る様子】
【本店裏の船着場から漁に出る様子】

中世期の古文書によると、香取海では「海夫」と呼ばれる漁民集団が存在していたとされ、沿岸には「おみかわの津」「つのみやの津」「さわらの津」など多く津があったとされます。
「おみがわの津」の一部は黒部川となり以降、旧小見川町の発展とともに歩みます。
戸村川魚店は創業の佐原も、現在の小見川もこの「津」地域にあり、その昔はベニスのような水の都で、船で行き来していたとのことで、うなぎをはじめとする川魚業が盛んなのも必然と言えるでしょう。

香取市の歴史 江戸時代

【伊能忠敬生家跡】
【伊能忠敬生家跡】

天正18年徳川氏の関東入国にともなって、江戸時代を通じて市域の多くは幕府代官支配地や旗本知行地となります。
その中で小見川の一部には文禄3年に松平氏が入り、その後領主の交代を経て、寛永16年からは内田正信が領主となり藩領が続きました。
こちらの小見川陣屋、内田陣屋の跡地は現在、香取市立小見川中央小学校となっています。

佐原や小見川は利根川水運の発達により、年貢米の津出し場や周辺地域の物資の集散地として栄え、醸造業などの産業も発展しました。
この時期、佐原村は「お江戸みたけりゃ佐原にござれ佐原本町江戸まさり」と言われるほどの賑わいを見せていました。
日本初の実測日本地図を自らの足で歩いて作られた伊能忠敬も佐原で醸造業を営んでいました。

一方南部には台地や谷津地帯は多くの農村集落が形成されていましたが、佐原から栗源にかけての台地上には、幕府馬牧のひとつである油田牧が広がっていました。
このため周辺村落には牧の管理などに係わる課役が負わされていました。

香取市の歴史 明治・大正時代

【佐藤尚中誕生地】
【佐藤尚中誕生地】

明治8年、香取市域は千葉県に属するようになります。
そして明治22年の町村制の施行により、佐原地区には佐原町などの9町村(後に8町村)、小見川地区には小見川町など5町村、山田地区には府馬村など3村、そして栗源地区には栗源村がそれぞれ成立しました。
この際に佐原地区の大倉村の初代村長が戸村家のご先祖様です。

順天堂大学の創業者、東京大学医学部の初代校長であり明治天皇の侍医長だった佐藤尚中が活躍されたのもこの頃で、現在も出生地跡が小見川に残っています。
この間、佐原や小見川は水運による物資輸送の拠点となり、商業地として発展する一方、山田・栗源地区では台地を活かした桑苗栽培と養蚕業が盛んとなりました。

香取市の歴史 昭和から現在

【香取市役所】
【香取市役所】

昭和26年から30年にかけての合併により、佐原市、小見川町、山田町が成立、栗源町はこれ以前の大正13年には町制をしいており、それぞれの市・町の歩みを重ねてきました。
そして、平成18年3月27日、佐原市、小見川町、山田町、栗源町の1市3町が合併して、香取市が誕生しました。
平成28年には市政合併10週年を迎えました。

これからの香取市

これからの香取市

私はこの街、香取市が大好きです。

若い頃は何もない田舎町で早く外に出たいと都会に憧れを持ってふらふらしていた時期もありましたが、香取市の歴史とともに歩んできて戸村川魚店を継いだ今店の繁盛だけでなく街の繁栄を願ってやみません。
画像は2017世界選手権のボート会場、こんな素敵なコースを香取市に作るのが夢です。

水に囲まれた水郷の土地、千葉県香取市に皆さんも足を運んでみてください。
また、香取市を応援したいという方がいらっしゃいましたら、是非ふるさと納税を2017年8月よりふるさと納税サイト「さとふる」で戸村川魚店のうなぎが選べるようになりました。